その11 アメリカへ

その当時(2007年ごろ)、まだまだ中国市場はフロンティアであった。生産拠点としてみている日本企業、そして市場としての中国を見る企業も増えてきたころである。その10で書いた広州の展示会、多くの商談成果があった中であるが、多くのトラブルもあった。

通関のルール、トラブル、展示会でパスポートがなくなった(日本の方は盗られたとはおっしゃらず、必ずなくなったとおっしゃる)方は多数、その後もいろいろと相談をいただいた。メールアドレスがそのままなので、2008年にアメリカに駐在してからもいろいろと相談のメールがやってきた。

前後するが、あれは2005年であったか。上海でアパレルの展示会の準備をしていた時、当時の小泉首相の靖国神社参拝を受けて、反日暴動が激化した。日本車は壊され、日本食レストランが破壊され、そして、上海総領事館前のデモは暴徒化し、すざまじい量のゴミだとかペットボトルだとか、生卵なんかが投げ込まれた。直後、出張する機会があったのだが、私が準備をしていた展示会の会場、上海マートのすぐ前に日本総領事館があったが、そのおびただしい量のゴミの山をみて、唖然としたのを覚えている。

広州の展示会から戻ったころ、そろそろ日本に戻って5年がたっていた。そろそろ、転勤かなと思っていた。当時、所属していた展示事業部では、欧州の国際的な展示会か、中国の展示会が多かった。そういったところで思い切り大きな展示会を組織して、日本企業のビジネスに貢献したい。あるいは、マレー語も話すので、シンガポールとか東南アジアに戻るのもありかな、と思っていたのだが、ふつふつとアメリカが気になりだした。

というのも、ニューヨークで開催されるギフトショーに2003年から参加していたのだが、わずか6社のジャパンパビリオンだった。世界最大の市場の米国の、最大の都市で行われる国際見本市になんで6コマなんだ!という思いがあった。ニューヨーク事務所の担当者曰く、少数精鋭で結果を出すという方針のようだった。それはそれで理解できるがあまりにも小さくないか。みんな新興市場(そういえば当時BRICSなんて言葉が流行っていた)、中国で苦労しているが、先進国のビジネスが先なんじゃないか、などとふつふつと思っていた。

考えてみれば、ベトナムへの日本企業のラッシュもアメリカがきっかけだった。マレーシアに留学した時、マラヤ大学はエリートだらけだと思っていたが、本当のエリートはハーバードに行くらしくて留守だった笑。やっぱりアメリカなんじゃないか。皆が中国中国と言っているからこそ、アメリカに興味を持った。そもそも、東南アジアというかアジアでは日本人はわりとよく見られる。日本人というだけで少し下駄を履かせてもらっている感じがした。もっと、ガチンコの勝負がしたい、そう思った。

本部で先輩方と立ち話している時に、ニューヨーク事務所の話になった。そういえば、私ニューヨークに行きたいです。世界最大の市場の最大の都市で活躍したいんです、と熱く語った。最後には、私を送るべきだくらいは言ったかもしれない。

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